2010年11月27日土曜日

星になった西郷隆盛 


(新政府の陰謀) 
明治10(1877)年 鹿児島の陸軍の火薬庫から、武器・弾薬を大阪に移送しようとした新政府、これが西南戦争勃発のきっかけとなった。 また2月3日、私学校党は中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問がおこなわれた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原らに指示したという「自白書」がとられ、多くの私学校徒は激昂して暴発状態となった。


政府は先手を打ってきもした。西郷先生の暗殺団を送りこみ、なおかつ、武器を隠れて他に輸送しようとするとは卑怯ではごわはんか!」


{新政府日本陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。
当時の主力装備であるスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出は,スナイドル銃が無用の長物と化した事を意味し、薩軍にとって致命的であったが、それでもなお旧式銃で戦いに臨んでいった。} 


明治10(1877)年2月15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した(西南の役開)。

『今般政府に尋問の筋これあり』 
西郷は自らの挙兵の理由を掲げ、2月17日、西郷率いる薩軍は東京へ向けて進撃を開始。


{熊本城内の政府軍兵士達が臨戦態勢を取っていることを知った西郷は、大変驚いたと伝えられる。 西郷としては、戦わずして東京に到着できると思っていたのかもしれません。 この西南戦争において西郷は、作戦を立て、陣頭で指揮を取るようなことは無かったとされる。} 「こいもまた天命ごわす」


明治10(1877)年9月24日 西郷隆盛 城山に散る(49歳没) 
西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯した。その後別府晋介はその場で切腹した。

《明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。》

(1868)年 東北戦争で庄内藩は最後まで抵抗し新政府軍を苦しめる。 9月27日降伏、 西郷は黒田に指示して、庄内藩に寛大な処分をさせた。西郷の寛大な処分に驚いた藩士たちは、その後西郷を慕うようになり、西南戦争では多くの元庄内藩士が薩軍に付く。


 西南戦争による官軍死者は6,403人、薩軍死者は6,765人。
 戊辰戦争による両軍の死者数は、13、572人
1865年に終結した米国南北戦争の戦死者数は620、000人。
日本はこの後,日清 日露 太平洋戦争へと突き進み 何百万の尊い命と財産を奪い取る。

最近は、中国 北朝鮮と言う愚か者が、直ぐ隣に居る。 


西郷隆盛の写真は1枚も現存しない、暗殺防止のため処分, 等あるようですが。
歴史的に「賊軍」「罪人」の汚名のもと葬られた人物は、その業績も消されてしまうことが多い。
しかし西郷隆盛の幕末から明治初期における偉大な功績は、消すことが出来ない。 西郷と対立していた人物たちがせめて、肖像だけでも消してしまえ との思惑があったのではないでしょうか。 
その後 対立していた人物たちを尻目に各地に立派な西郷像が出来、また西郷星となり人々の心の中に居続ける。
 追記 (西南戦争より)
赤龍丸と弾薬掠奪事件
(1877)年1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器・弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。 この搬出は当時の日本陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山県有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている。
日本陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。

後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して明治5年の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。

火薬・弾丸・雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければ銃として機能しない。

薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの小規模な量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因のひとつだった。

また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていた事もあり(経済的に余裕のある藩士の中には、洋式銃や弾薬をある程度自費で購入して所持し、有事に備えている者もいたが、経済的に余裕のない藩士にとっては、弾薬等が政府に奪

われる事で、有事に弾薬を無料で配給されるアテがはずれる、という事情もあった)、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器・弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って弾丸・武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きたが、私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみだった。

スナイドル弾薬の製造設備を失った事は、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、既に旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなった事を意味しており、後装式と前装式の連射速度の違いがもたらす決定的な戦力差を戊辰戦争に従軍した西郷はじめ多くの薩摩士族達は、実体験を通じて良く理解していた。

興味のある方は、  (西郷隆盛の生涯)
西郷隆盛について詳しく書かれているホームページ。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai.htm

0 件のコメント:

コメントを投稿