2010年12月24日金曜日

保安官に停職1年、愚行与党


海上保安官に停職1年、辞職する。

衝突ビデオを国民は誰でも見たい、見る権利がある と思っていた。ところが政府はならず者国家を立て 公開を渋った。

船長を釈放して、日本人を逮捕する。
いつの時代も 愚行与党は変わらない。
アメリカの顔色を伺い、最近は中国の顔色を伺い。

《前にも記載した白洲次郎は、
敗戦後 連合国軍総司令部(GHQ)が日本を支配し、最高司令官マッカーサーが、最高権力者だった。
正装にネクタイをした昭和天皇とノーネクタイのマッカーサーが並ぶ写真を新聞の1面に載せ全国に流す
政府は発行禁止の号令を出すが、GHQには逆らえない。 全国津々浦々の国民が米国の支配を実感した瞬間である。 
 
このような時期に白洲はGHQ相手に筋を通し一歩も引かなかった。

1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。

白洲次郎は講和会議 終了後にはじめて涙を流したそうです。

当時49歳、こんにちの様なアメリカと対等ではない時代に この様に 一喝、できる日本人が当時から現代まで白洲次郎 以外見当たらない。 今の官僚 政治家ならアメリカ 中国に対し美辞麗句を並べ、シッポを振るでしょう。真に情けない。

日本の現状を白洲次郎が生きていたらなんと言うでしょう。》
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アユタヤの下着工場で労働争議、即日解決
2010/12/23
22日朝、タイ中部アユタヤ県バンパイン工業団地の女性下着メーカー、タイ・プログレス・ガーメントで、工場従業員850人のほとんどが、経営側が提示した賞与と年末年始の休暇を不満として就業を拒否し、工場前で抗議集会を行った。県労働福祉局の調停で経営側が譲歩し、従業員は午後に職場に復帰した。

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